スポンサードリンク

2007年4月7日土曜日

球団の歴史

下関・大阪=洋松・川崎時代
元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。
1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からの優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは大毎オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム