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2009年2月22日日曜日
2008年11月15日土曜日
ベイスターズ2008
今年は我が横浜ベイスターズにとって最悪の年であったと思う。一度も浮上のきっかけさえなく、気合も感じさせず、ただ漠然と時間が過ぎ去って行っただけである。三番内川・四番村田の個人成績だけが話題であったが、三・四番が打っても勝てないチームって何なんでしょうか?まだ来年のことを考える余裕も無いのが実感です。
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2007年4月14日土曜日
横浜大洋時代
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1978年、西武鉄道グループの出資を受け入れ、同社の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりファンが急増したとされる。オーナーであった中部謙吉が前年に死去し、親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団は三男の中部新次郎がオーナーとなる。国土計画(現コクド)の堤義明は、大洋の球団株を持っていたが西武ライオンズ買収のため、ニッポン放送とTBSへ2:1の割合で球団株を売却。
1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。
1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたもののチームは先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。
1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、思い届かず低迷。
1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。
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1978年、西武鉄道グループの出資を受け入れ、同社の主導で横浜市に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。これにより川崎時代よりファンが急増したとされる。オーナーであった中部謙吉が前年に死去し、親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団は三男の中部新次郎がオーナーとなる。国土計画(現コクド)の堤義明は、大洋の球団株を持っていたが西武ライオンズ買収のため、ニッポン放送とTBSへ2:1の割合で球団株を売却。
1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として関根潤三を監督に迎えたが、長嶋招聘は失敗した。
1982年のシーズン終了間際の試合で、打率1位であった長崎慶一に6厘差で迫っていた田尾安志を5打席連続敬遠し、長崎を首位打者にしたもののチームは先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなど大差で敗れ、その結果田尾の所属する中日ドラゴンズの優勝が決まった。ちなみにこの試合の前は中日と巨人が並んだ状態であり、大洋が勝利した場合は巨人が優勝だった為、巨人ファンからは「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は故意敗退行為だ」と連盟に試合の無効を主張する抗議(結論は却下)が行われ、巨人ファン以外からも「リーグ優勝が決まる試合でチームの勝利よりも個人の記録を優先させるのはどうか」という苦言が集中した。
1985年、近藤貞雄が監督に就任。「スーパーカートリオ」(後述を参照)を売り出し注目されたものの、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、思い届かず低迷。
1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。またこの時、中部藤次郎の死去により、弟中部慶次郎が大洋漁業社長となり、球団のオーナーにも就任した。球団名から「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使用した「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。が、中部はかつて大洋漁業の主力事業であった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示し、その結果、愛称は「ベイスターズ」となった。余談だが翌年、訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心であった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしている。
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2007年4月7日土曜日
球団の歴史
下関・大阪=洋松・川崎時代
元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。
1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からの優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは大毎オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。
元は大洋漁業の実業団チーム。1930年代には都市対抗野球などに出場、1948年に国体で優勝し一躍名をあげる。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、ノンプロ強豪の大洋野球部からは多くの選手が引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた中部兼市社長は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
同年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(現在の下関球場とは別)を本拠地球場とした。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称。巨人からベテランの中島治康、平山菊二をもらい受けたが、国体優勝時の主力選手は軒並み他球団に引き抜かれており、チーム力の低さは如何ともし難く1950年5位、1951年6位、1952年4位。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープとの合併も検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって合併は回避された。
1953年1月10日、前年の取り決め(シーズン勝率3割未満の球団は解散)の該当球団となった松竹ロビンスと対等合併し大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。ただ、1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。そして主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われる。1年目のシーズン終了後に球団運営会社が正式統合され、事務所も大阪球場内に置かれた。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退。中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして心機一転。しかし成績は低迷。エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜くも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出し、前年最下位からの優勝・日本一を果たす。日本シリーズでは大毎オリオンズ相手に4勝0敗であった。しかしその後は優勝から遠ざかる。
クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの総合的な戦力は低く、チーム勝率は5割を超えることすら珍しかった。
読売ジャイアンツの9連覇中、大洋ホエールズは強力な打線で読売ジャイアンツの投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が読売ジャイアンツに打ち込まれで、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時打ち合いで読売ジャイアンツに勝てるチームは大洋ホエールズぐらいであった。それすらも川崎球場の狭さ(両翼:89m,中堅:118m)と無縁では無い。読売ジャイアンツの10連覇が途絶えた後、ジョン・シピンや松原誠など主軸打者の多くが読売ジャイアンツに引き抜かれていった。
2007年4月2日月曜日
経歴
チーム名 横浜ベイスターズ
加盟団体 セントラル・リーグ
創設年度 1950年
チーム名の遍歴 大洋ホエールズ(1950年~1952年)
→大洋松竹ロビンス(1953年)
→洋松ロビンス(1954年)
→大洋ホエールズ(1955年~1977年)
→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)
→横浜ベイスターズ(1993年~)
フランチャイズの遍歴 山口県(1952年)→山口県・京都府(1953年・1954年)→神奈川県(1955年~)
本拠地 横浜スタジアム(神奈川県横浜市)
収容人員 30000人
オーナー 若林貴世志
親会社 東京放送(TBS)
監督 大矢明彦
タイトル リーグ戦:2回、日本シリーズ:2回
(優勝年度) (リーグ戦)1960、1998
(日本シリーズ)1960、1998
加盟団体 セントラル・リーグ
創設年度 1950年
チーム名の遍歴 大洋ホエールズ(1950年~1952年)
→大洋松竹ロビンス(1953年)
→洋松ロビンス(1954年)
→大洋ホエールズ(1955年~1977年)
→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)
→横浜ベイスターズ(1993年~)
フランチャイズの遍歴 山口県(1952年)→山口県・京都府(1953年・1954年)→神奈川県(1955年~)
本拠地 横浜スタジアム(神奈川県横浜市)
収容人員 30000人
オーナー 若林貴世志
親会社 東京放送(TBS)
監督 大矢明彦
タイトル リーグ戦:2回、日本シリーズ:2回
(優勝年度) (リーグ戦)1960、1998
(日本シリーズ)1960、1998
2007年3月31日土曜日
横浜ベイスターズ
横浜ベイスターズ(Yokohama BayStars)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。
球団事務所は本拠地の横浜スタジアムの近くにある、関内新井ビル7階(横浜市中区尾上町)
2軍の球団名は湘南シーレックス。2軍の本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。練習所及び合宿所は、横須賀市の横浜ベイスターズ総合練習場。
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